仙台の企業に勤める方から話を聞きました。
「3月11日、いつもよりちょっとゆれるなぁと思いフロアーの様子を見に行こうと
扉を出た瞬間、とてつもない、今までに感じたことの無い衝撃を受け、立っていられ
無かった。
揺れはどんどん大きくなり、物は落ち、倒れ、自分の周りしか見えない状態で、
周りにつかまっているのがやっとだった。
揺れがやっとおさまってきて、やっと遠くに目がやれたとき、散乱している様子に
驚愕しました。
その後、社員の無事を確認し、業務を中止し、真っ暗になった街を歩いてそれぞれ家路についきました。
家に帰ればなんとかなると思い、玄関を開けると、中は真っ暗なのでライターの火で照らしました。
そこには、室内のものが散乱してとても入れない状態でした。
そして、家族の姿もありません。
急いで駐車場の車に乗り、子供の幼稚園まで行きましたが、そこも真っ暗で人気がありません。
真っ暗な街を探していると、小学校に避難していることを知りました。
そこで、やっと家族に会い、その日は家族3人車中泊しました。
翌日、車のテレビを見て津波の被害があったこと、そしてそれは甚大な被害であることが映像を通じてわかりました。
それまでは、揺れたけどそんなに被害がなかったと思っていたので。
落ち着きを取り戻し、震災より3日後、社へ出社しました。
幸い、スタッフは無事でしたが、部下の女の子の実家が南相馬市で、
お母さんとおばあちゃんとお兄さんのお嫁さんであるお姉さんが行方不明という報告を受けました。
その子の話によると、地震直後携帯電話がつながり、無事を確認したあと連絡が途絶えたということでした。
そのうえ、お兄さんは福島第一原発の社員だそうです。
事故後、原発に残り作業をしており、捜索も出来ないようです。
しかも、南相馬市は半径20キロ以内の避難区域。
その子に業務はいいので帰るように言うと、業務をしているほうが気がまぎれるといい、仕事を続けていました。
そして2日後。
残念なことにお母さんの遺体が見つかったとの連絡が入りました。
すぐ、帰るように言うと、仕事は最後まで続けたいと。
ですが、今帰らないともう2度と会えないかもしれないよと告げて、やっと帰ることに。
しかし、交通機関は不通で、タクシーで帰ろうとしても、原発のせいで乗車拒否だったそうです。
まだ、他の家族は見つかっておらず、今は家族の状況から原発を離れられたお兄さんとお父さんと、毎日探しているそうです。
流された家を見つけ、その方角をたどって必死に探しているそうです。」
話を聞いて言葉が出ませんでした。
white man